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自由奔放
     ふぁーさんのヒゲが抜けました
     120702_003732_convert_20120907200443.jpg
     海の近くだからという訳ではありませんが 波打っています
          120528_081936_convert_20120907200551.jpg
          こんな感じで生えていました



ふぁーさんは自由奔放という言葉からはかけ離れた性格ですが
自由奔放な面も確かにあるのです
それがヒゲです

120720_050513_convert_20120907200811.jpg
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あっちを向いたりこっちを向いたり 実に奔放です!


ちなみに元のオーナーさんから頂いた写真を見ると
若い頃はそうではなかったようです
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今日は私自身の事について少しお話しさせていただこうと思います。
私が生まれつき持っている障害についてのお話しです。
そういうお話しが苦手な方はどうぞスルーを。

※今回はコメント欄はお休みさせて頂きます。
 もう半世紀以上も前の今日(9月7日)は残暑厳しい日だったそうです。その日、私は両親の第一子としてこの世に生を受けました。
 「五体満足なら、男の子でも女の子でもいい」
 待ち望んだ子が生まれる時、よく聞かれる言葉です。しかし私の両親にとっては叶わぬものとなりました。私は未熟児で、しかも障害を持って生まれたのです。おそらく母の胎内で臍の緒が巻き付いたと思われるのですが、生まれたばかりの私の左手は親指・人差し指・中指がくっついていました。しかもきつく巻き付いていたのでしょうか、中指はちゃんとした形はしていたものの第2関節から先が壊死しており、生後まもなく指の半分が取れてしまいました。親指と人差し指はちゃんと成長出来ずに、普通の半分くらいの長さで奇妙な形をしていました。(生後10か月と4歳の時の二度に分けて3本の指を切り離す手術を受けました)
 父にはすぐにこの事実が知らされましたが、母には退院まで話される事はありませんでした。「五体不満足」の著者である乙武洋匡さんのお母さまは洋匡さんを初めて見た時「かわいい」が第一声だったそうです。乙武さんのそれに比べたら私の障害なんて小さなものにも拘わらず、私の母は言葉もなく泣き崩れました。母は兄弟の中で下から2番目で、周りが何でもしてくれる環境で育ちました。人に依存する事が多かった母にとって、障害のある子を持つことは耐えられないことだったのでしょう。父も末っ子で両親にそれは大事に育てられたので、三十をとうに過ぎてはいましたが精神的に成熟しきれないまま結婚し一児の、それも障害を持った子の親となったのです。父も母も私の障害と真に正面から向き合う事ができなかったように思います。(両親の名誉のために申し上げますが、二人ともいたって善良で真面目な人間です。それに二人とも私を心から愛してくれました)
 母が赤ん坊の私を抱いた1枚の写真があるのですが、自分の掌で私のちいさな左手をすっぽり包み込んだ母の笑顔には悲しみが宿っています。今の私の半分の年齢の若き母の心を思うと切なくなります。
 他人に堂々と私の障害を見せることを躊躇した両親の葛藤は、やはり子供である私に少なからぬ影響を及ぼしました。私は常に人の陰にひっそり隠れ左手を隠し、口数の少ない静かな子どもでした。そして私の左手に向ける他人の視線にとても敏感でした。

 得てして子どもというのは残酷なもので、小学校にあがると身体の大きな子にクレヨンを取り上げられ「お前の手を見せろ。そうしたら、これ返してやる」などと言われました。何も悪い事はしていないのに衆人環視の中で手を差し出さなければいけなかった時、子供ながら大いに屈辱感を感じたものです。
 私は小学校一年生の夏休みに、市の中心部から海辺の漁師町へ引っ越し転校しました。同じ市内ながら、海辺ののんびりした気質の子どもたちは私の手に好奇心こそ見せましたが、いじめたりする子はあまりいませんでした。他のクラスの子に何か言われても、友だちがもの凄い勢いで庇ってくれました。よい友だちに恵まれ、引っ込み思案ながら私自身ものびのびと過ごすことが出来ました。

 小学校四年生の時に、音楽にリコーダー(縦笛)が新たに加わりました。ピアノは習っており、なんとか演奏していましたが、これが私にとっては大きな難問でした。左手ではリコーダーの穴を塞げないのです。中指は全く使えないので普通の人は使わない小指も動員!親指と人差し指は短くて細くて関節が無いため穴を塞ごうとしても どうしても空気が漏れてしまいました。果たして一学期の音楽の成績は今まで「4」しか取ったことがなかったのが「2」になっており「楽器を上手に演奏する事が出来る」という項目にバツ印が付けられていました。この事が私を発奮させ、リコーダーの猛練習が始まりました。来る日も来る日も練習しました。親指と人差し指は殆ど触覚が無いため、穴を塞いでいる感覚がありません。そのため指をギュッと強く穴に押しつける事になるのですが、あまりに長時間強く押し付けていたため、血が出ることもしばしばでした。そうして どれくらい練習を重ねたでしょうか。ある時、綺麗にドレミファソラシドが吹けるようになりました。嬉しかったです。嬉しくててどんどん練習し、とうとう曲が吹けるようになりました。音楽はまた4に戻りました。ちゃんと音が出るのが嬉しくて毎回、毎回心を込めて吹きました。こうした猛練習の辛さとその後の喜びの中から美しい音色が生まれ出たのです。小学校5年、6年の時には先生からクラスみんなの前で模範演奏を頼まれるまでになりました。中学の時には常に笛のテストでは一番の点を取れるようになっていました。シンと静まり返った教室で私が演奏を始めると「すげぇ!」「どうやって吹いてるんだ?」などという囁きが聞こえました。
 こうして私はこの小さな障害のおかげで努力することの尊さを教えて貰えた気がします。

 でも悲しかったこともあります。私が小学生の頃には、運動会には必ずフォークダンスがありました。男の子の中には私の左手には殆ど触れない子や、手首をつかんで指に触れないようにする子もいました。一度でいいから普通の指になって普通に踊ってみたいなあ、と思ったものです。

 一昨年、高校の同窓会がありました。その時に小・中・高と同じだったK君がいました。確か中学の時に1回だけ同じクラスになった事がありました。そのK君と昔話をしていたら、突然「左手で握手しよう」と言われました。私が一瞬躊躇すると「大丈夫。知ってるから」と言われました。そして温かい手でそっと私の左手を握ってくれました。おそらく私にとって左手でする初めての握手でした。ちょっぴり涙が出ました。握手の後「中学の時、すごく気にしていたよね。そんな気にするほどの事じゃないよ」と言われました。

 普段、私はそう不便を感じることなく生活しています(料理する時など材料を切るのに上手く押さえられないので普通の人の2~3倍の時間はかかってしまいますが・・)。障害のこともあり、一流企業には就職できなかったし、お見合いの話も1件も来ませんでした。でも自分が不幸とは思いません。大きな病気も持っていますが、却って今では幸せを感じます。それは私を愛し慈しみ育ててくれた両親のおかげであり、私を支えてくれるおとーや息子たちのおかげであり、素敵な友人たちのおかげでもあります。


 でも時々だけれどちょっぴり思うのです。普通に指が10本あって可愛いマニキュアできたらなぁ・・って。
 
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 もう半世紀以上も前の今日(9月7日)は残暑厳しい日だったそうです。その日、私は両親の第一子としてこの世に生を受けました。
 「五体満足なら、男の子でも女の子でもいい」
 待ち望んだ子が生まれる時、よく聞かれる言葉です。しかし私の両親にとっては叶わぬものとなりました。私は未熟児で、しかも障害を持って生まれたのです。おそらく母の胎内で臍の緒が巻き付いたと思われるのですが、生まれたばかりの私の左手は親指・人差し指・中指がくっついていました。しかもきつく巻き付いていたのでしょうか、中指はちゃんとした形はしていたものの第2関節から先が壊死しており、生後まもなく指の半分が取れてしまいました。親指と人差し指はちゃんと成長出来ずに、普通の半分くらいの長さで奇妙な形をしていました。(生後10か月と4歳の時の二度に分けて3本の指を切り離す手術を受けました)
 父にはすぐにこの事実が知らされましたが、母には退院まで話される事はありませんでした。「五体不満足」の著者である乙武洋匡さんのお母さまは洋匡さんを初めて見た時「かわいい」が第一声だったそうです。乙武さんのそれに比べたら私の障害なんて小さなものにも拘わらず、私の母は言葉もなく泣き崩れました。母は兄弟の中で下から2番目で、周りが何でもしてくれる環境で育ちました。人に依存する事が多かった母にとって、障害のある子を持つことは耐えられないことだったのでしょう。父も末っ子で両親にそれは大事に育てられたので、三十をとうに過ぎてはいましたが精神的に成熟しきれないまま結婚し一児の、それも障害を持った子の親となったのです。父も母も私の障害と真に正面から向き合う事ができなかったように思います。(両親の名誉のために申し上げますが、二人ともいたって善良で真面目な人間です。それに二人とも私を心から愛してくれました)
 母が赤ん坊の私を抱いた1枚の写真があるのですが、自分の掌で私のちいさな左手をすっぽり包み込んだ母の笑顔には悲しみが宿っています。今の私の半分の年齢の若き母の心を思うと切なくなります。
 他人に堂々と私の障害を見せることを躊躇した両親の葛藤は、やはり子供である私に少なからぬ影響を及ぼしました。私は常に人の陰にひっそり隠れ左手を隠し、口数の少ない静かな子どもでした。そして私の左手に向ける他人の視線にとても敏感でした。

 得てして子どもというのは残酷なもので、小学校にあがると身体の大きな子にクレヨンを取り上げられ「お前の手を見せろ。そうしたら、これ返してやる」などと言われました。何も悪い事はしていないのに衆人環視の中で手を差し出さなければいけなかった時、子供ながら大いに屈辱感を感じたものです。
 私は小学校一年生の夏休みに、市の中心部から海辺の漁師町へ引っ越し転校しました。同じ市内ながら、海辺ののんびりした気質の子どもたちは私の手に好奇心こそ見せましたが、いじめたりする子はあまりいませんでした。他のクラスの子に何か言われても、友だちがもの凄い勢いで庇ってくれました。よい友だちに恵まれ、引っ込み思案ながら私自身ものびのびと過ごすことが出来ました。

 小学校四年生の時に、音楽にリコーダー(縦笛)が新たに加わりました。ピアノは習っており、なんとか演奏していましたが、これが私にとっては大きな難問でした。左手ではリコーダーの穴を塞げないのです。中指は全く使えないので普通の人は使わない小指も動員!親指と人差し指は短くて細くて関節が無いため穴を塞ごうとしても どうしても空気が漏れてしまいました。果たして一学期の音楽の成績は今まで「4」しか取ったことがなかったのが「2」になっており「楽器を上手に演奏する事が出来る」という項目にバツ印が付けられていました。この事が私を発奮させ、リコーダーの猛練習が始まりました。来る日も来る日も練習しました。親指と人差し指は殆ど触覚が無いため、穴を塞いでいる感覚がありません。そのため指をギュッと強く穴に押しつける事になるのですが、あまりに長時間強く押し付けていたため、血が出ることもしばしばでした。そうして どれくらい練習を重ねたでしょうか。ある時、綺麗にドレミファソラシドが吹けるようになりました。嬉しかったです。嬉しくててどんどん練習し、とうとう曲が吹けるようになりました。音楽はまた4に戻りました。ちゃんと音が出るのが嬉しくて毎回、毎回心を込めて吹きました。こうした猛練習の辛さとその後の喜びの中から美しい音色が生まれ出たのです。小学校5年、6年の時には先生からクラスみんなの前で模範演奏を頼まれるまでになりました。中学の時には常に笛のテストでは一番の点を取れるようになっていました。シンと静まり返った教室で私が演奏を始めると「すげぇ!」「どうやって吹いてるんだ?」などという囁きが聞こえました。
 こうして私はこの小さな障害のおかげで努力することの尊さを教えて貰えた気がします。

 でも悲しかったこともあります。私が小学生の頃には、運動会には必ずフォークダンスがありました。男の子の中には私の左手には殆ど触れない子や、手首をつかんで指に触れないようにする子もいました。一度でいいから普通の指になって普通に踊ってみたいなあ、と思ったものです。

 一昨年、高校の同窓会がありました。その時に小・中・高と同じだったK君がいました。確か中学の時に1回だけ同じクラスになった事がありました。そのK君と昔話をしていたら、突然「左手で握手しよう」と言われました。私が一瞬躊躇すると「大丈夫。知ってるから」と言われました。そして温かい手でそっと私の左手を握ってくれました。おそらく私にとって左手でする初めての握手でした。ちょっぴり涙が出ました。握手の後「中学の時、すごく気にしていたよね。そんな気にするほどの事じゃないよ」と言われました。

 普段、私はそう不便を感じることなく生活しています(料理する時など材料を切るのに上手く押さえられないので普通の人の2~3倍の時間はかかってしまいますが・・)。障害のこともあり、一流企業には就職できなかったし、お見合いの話も1件も来ませんでした。でも自分が不幸とは思いません。大きな病気も持っていますが、却って今では幸せを感じます。それは私を愛し慈しみ育ててくれた両親のおかげであり、私を支えてくれるおとーや息子たちのおかげであり、素敵な友人たちのおかげでもあります。


 でも時々だけれどちょっぴり思うのです。普通に指が10本あって可愛いマニキュアできたらなぁ・・って。
 
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[2012/09/08 01:21] | ふぁーふぁ


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